昭和41年07月04日 夜の御理解
そのことを通して教えられる。そのことを通して教える。何時もそう言う様にあれに引掛けして、これに引掛けして自分自信が高められる事を、精進しなければならないと思うですね。先ほどあの、久保山先生ときれいな札を交換致しますから、その時の先生の話のなかにですね、本当にこうやってきってやるとはよかばってんか、きってもらう人がいっちょんしわ延さんなり久保山先生変えてくれち言う。
だから私は申しました。そげな事があるもんかあんた、こげなきれいな札をやるとじゃから、あんたどんもちゃっと、たった千円札一枚じゃから綺麗にしわを伸ばしてから変えて下さいちいわじゃこて。それはあなた言わな。それがあなた教導よというて私話したことですけれども、それが中々言われませんという事だったですけれどもね、そしたらすぐ頂きますことがです今、あの霊神様の前にお花が入れてあるでしょう、あの柳と小菊が根占にしてあるですね。
あの柳というのはあれがまぁ、皆さんが池坊の流儀で生け上げてありますですからあの柳をその流儀にあわせて溜めてあるわけですね。ですからあんな具合にこうなっておるわけですけれども。やはりこの教導という事は大事だということですね。やはりこの椛目なら椛目の信心の型に親先生みて見なさい、あげん几帳面じゃないかと、几帳面じゃないと好きなさらんですよと、こげな事じゃ信心にならんですよ。
と久保山先生がそれによって教導なさるということはこれはもう、久保山先生といわれるからには、そんな教導しなされなければいけん。ということと同時にそのことによって、久保山先生自身も教導されさなければならないと言う事なんです。なら私が果たしてなら先生、かいて下さいという時に、なら私もそんなに几帳面にしておるだろうかと。そうと私は思わなければ、久保山先生じゃろうと思う。紙一枚ち言うのにこんなしわも伸ばさんな持って来て、ということがちょいちょいあるんですよ。
私もだからやっぱ私もそれをその、必ず先生のとは伸ばしちゃ歩けども私はやっぱそれを伸ばしなおすです。だからわたしもそれも同じ事なんです。久保山先生も同じ事なんです。ね。ですから久保山先生自身がです、こげな事じゃいかんよて、これはきっちとあんたぢんが変えてもらう時にきちっとしわをのばしなさい。というと同時に私もこげなろくそなかことはなかろうかとそれによって教導されなければならないということなんです。だからね、自分が先輩である。
自分が先生と言われる。でなくてもいうなら兄弟であるならば兄が、又は姉がです、弟達や妹達に言う場合、親子でも言う場合そげな事いくもんの、なんちろくそなかこつのと、まぁこれはろくそなかとことだけではありません。もう一時が万事に教導する時にです、それはやはり教導だから目に余る様な事があったら、そげな事じゃいけんと思うからやっぱしつけをしなければいけません。それは柳の木をこうやって、ためるようなもの、と同時にしつけをしただけではいけません。
私の子供だもん、私の兄弟だもん。私に関連のある人が、こういうろくそな事をするという事は、私自身もそういうろくそなか事はなかろうかと、改めてみると、自分の周囲に改めて、ろくそな事がいくらでもあるに違いないです。ね。その事によって教導をするということと同時に、その事を通してです、自分が教導されるという事が、もうあれに引掛けこれに引掛け教導もできれば、自分も教導されるという事をいつも、心におかなければならんと感じたです。
これも先ほどでした、ある教会の大変御比礼を頂いておる女の先生の所なんですね。そこは昔の教会ですから、御信者さんが、お初穂なんかのしつけが出来ていないのです。それでも、例えば100円のお初穂をしてそれに家族五人なら五人の名前を書いてしなさる。そうするとここあたりは違いますけれども、他の教会は必ず、五人の名前を書いたら、五体の御神米をさげならりゃなんわけです。ね。
それでもうあんたどんばっかりは、じょうけに及ばん、今あんた御神米がいくらすると思うとるちいうてから、教導されるそうです。ところがその先生であって一つもそれが不自然でもなからなければ、どげな汚い事をいわれるじゃろうかと聞こえてこんのです。なぜって、ね、もうその先生自身がおかげを頂いておるからそれを思わんのですよ。ね、その先生自身が親教会にそれだけのことが出来て、例えば親教会だけではない、それだけ美しくでられ日頃ておるから。
それを言われてもひとつもそれを汚いこととして、聞こえないわけです。私共がそれを聞いてもほほえましいような感じがするのですよ。それがどうでしょうか、取り込み主義のお取込み先生であったら、どうでしょうか。ね、この人はほんのお取り込みだけの先生というのがありますよ。それが(?)評してお取込み先生と。お取次の先生ではなくお取り込みの先生。ね、そのお取り込み先生がそれをいうとです、やっぱりどうした汚い先生じゃろうかになるでしょう。
信者にそれは響かんでしょう。本当にそうだと本当の事を教えておられてもです、ね、例えば少々、考えようでは汚いようであってもです、そういうことでも汚いこととして、相手に響かない。周囲に響かない。自分自身がきれいな生き方をしよりなさるからなんですよ。これとても同じ事。やはり教導するからには自分自身がきれいになれというなら、まず自分自身がきれいにならなければきれいになれという事は出来ない。ね、私はここではこればっかり申します。
もう本当に限りなく美しくなろうやと。もう私はえげつないくらいにいう。ね。それは私自身がそれを本気で取り組んでおるから、それを言うても聞かないという風には皆さん聞かれんのではないかとこう思う。ね。ですからここんところをです、教導する同時に教導されるとその事を通して教えていく。その事を通してまた自分も教えられる。そういう私は信心の進め方というものが、いつもこう身についておかなければならない。子供達をおこってもかまわん。
それがしつけであるならば。叩いてもかまわん、場合によっては。けれども叩くときにしつけをするときにです、ね、自分自身が叩かれなければならない事がありはせんかと思う時に自分というものをやはり厳しく自分の心の中に自分の心にやはりもしつけのむちを当てんわけにはいけません。それであって始めて教導する、教導されるという事になるのじゃないかと思うですね。
どうぞ。